舞台評『Japan-Taiwan Butoh Exchange』
ー民主主義国家同士の舞踏交流ー
筆者 竹重伸一(観劇日 7月9日(日)中野テルプシコール)
掲載媒体 テルプシコール通信No.197 掲載「民主主義国家同士の舞踏交流」
編集発行人/秦宜子 発行所/中野区中野3-49-5-1F テルプシコール編集
室
発行日/2023年8月24日
この企画は、台湾台北市にある「フーチャ・シアター(滅劇場)」の芸術監督であり、台
湾国際舞踏協会主宰の舞踏家胡嘉(Hu Chia)氏とWalks project大倉摩矢子の数年来の交流か
ら生まれたものである。前日の8日には9日の公演プログラムに出演した舞踏家4氏のワー
クショップが同じテルプシコールで行われた。コロナ禍でストップしていた舞踏の国際交
流が本格的に復活したのは喜ばしいし個人的にも台湾の舞踏家の公演を初めて拝見した貴
重な機会であった。
公演プログラムは全てが舞踏家と音楽家のセッションで、第一部が辻たくや(舞踏)×河崎
純(コントラバス)×大倉摩矢子(舞踏)、休憩を挟んでの第二部の前半が南阿豆(舞踏)×高原朝
彦(10弦ギター)、後半が胡嘉×五十嵐あさか(チェロ)という組み合わせの3公演であった。
第一部では河崎が舞台を牽引した。冒頭は下手側にいて弦の最上部を指で爪弾いて微妙な
弱音を奏でたかと思えば、その後は辻と大倉の立ち位置を見極めながら頻繁にコントラバ
ス共々舞台を移動し、時には弓を鋭く振るパフォーマンスを披露するなど完全にパフォー
マーの一人としての振る舞いであった。アフタートークでは観客の一人から「動き過ぎ」
という意見も出たが、なかなか盛り上がってこない2人の舞踏家の踊りを彼のパフォーマ
ンスが活性化していたことは否定できないと思う。そして、最後に音響として台湾のスト
リートノイズと台湾先住民エリの美しい歌を流したのも粋な試みだった。
一方舞踏家として最初に登場した辻は、昨年10月の天狼星堂公演、今年5月のWalks企画
の大倉とのデュオ公演とこのところ立て続けに拝見しているが毎回同じ印象である。デビ
ューした10年程前にはあった身体のデリケートさも失い、合田成男がよく言う「夢を見て
いる」踊りになってしまっている。つまり、身体が空間の重力と全く関係性を持てないま
ま手で上半身で主観的に漂っているだけになってしまっているのである。空間の重力と関
係性を持てないということは観客の身体とも関係性を持てないということなのでこちらの
身体も放っておかれてしまうのだ。もっと身体の縦軸に意識を向ける必要があるだろう。
情動を軸に凝縮できるだけ凝縮してそれでも零れてくるものを手が拾うという踊りの方が
強いはずだ。師匠の大森政秀の踊りはそうなっているのだからよく観察・研究すべきで動
けなくなることを恐れない方が良いと思う。中盤から登場した大倉は、公演開始直前まで
会場整理に追われていた影響もあってかなかなか踊りのエンジンがかからないように思え
たが、辻が退出して河崎と一対一になってからは徐々に踊りで空間を動かせるようになっ
た。彼女が両腕を宙で捧げ持つと実際には何も持っていないにもかかわらず、そこに何か
モノが存在しているように感じた瞬間があった。大倉は自意識を解体して神経のレベルで
空間と関係できる能力を持っているが、それはある意味シャーマンのようなカミとの交信
能力であり、眼前の観客という他者の身体とどう即興的な関係を切り結ぶかが次の課題に
なるのではないだろうか。
開始前に舞台上手側ホリゾントの壁に吊るされた胡嘉氏(書家でもある)の数字の「1」を
描いた縦長の書を美術として第二部は上演された。第二部では前半後半とも音楽家の2人
は下手側の場所を動かず、舞踏家との正統的な一対一のセッションであった。前半の舞踏
家南阿豆は、背中の皮膚を曝け出したひっくり返った半裸の後ろ姿から徐々に立ち上がっ
て観客に正対し、瀕死の白鳥のように舞った所までは重力と震えが感じられて彼女の実力
を示す素晴らしい踊りであった。しかし、その後動きは次第に機能的になり、脚をきちん
と伸ばして開脚するような体操ともいえる踊りに変わったのは一つの実験だったことはわ
かるが継ぎ接ぎのように思えたのも事実である。彼女の代表作である「Scar Tissue」シリ
ーズ後の展開、つまり自分語り以外のどこに踊るモチーフを見つけるのかが問われている
と思う。高原のギターは、南との間に緊張感を保ちながらも上手く踊りを引き立てる演奏
だった。
後半の舞踏家胡嘉は鳥の羽で作った団扇を終始右手に持ちながら踊った。それが台湾の
伝統と繫がるものなのかは不明だが日本舞踊や能と共通するものを感じた。つまり踊りと
いうより舞であり、常に型の優雅さを保とうとする意志である。そこには形式的な不自由
さも感じたが、太極拳の影響も受けている胡の舞は日本の舞より柔軟でダイナミックであ
る。そして、道化のような可笑し味もある。冒頭のあぐらをかく姿勢に最後にまた戻ると
いう構成は、現実から夢に移行した存在がまた現実に戻ってくるという一つの円環を示し
ているが、荘子の「胡蝶の夢」の説話のようにそこでは夢と現実が相互浸透するような事
態が起こっている。近代の直線的な時間を批判することに胡の踊りの本質があるように思
える。当初出演予定だった一絃琴の峰岸一水が5月に急逝したことを受けての登板だった
チェロの五十嵐は、滑らかな音色で胡の身体に染み入っていくような演奏で相性の良い組
み合わせだった。
アフタートークで胡からこちらの不意を突かれるような発言が出た。彼は舞踏という表
現を自由と民主主義の精神に基づくもの、大陸中国の全体主義に抵抗するものと考えてい
るというのだ。舞踏は今までアバンギャルドか前近代の土着的なものかのいずれかの立場
から論じられていてどちらにしてもアメリカ主導で成立した戦後民主主義を揶揄するよう
な思想を持つものとして考えられてきた。実際土方巽の周囲にいた人物たちは三島由紀夫
や澁澤龍彦のようにそういう思想を持った人物が多かったし、1970年代以降土方が舞踏の
様式化のために集団の縦組織化を図ったこともそのイメージの増幅に拍車をかけたと思う
。しかし、今やそれが舞踏のカルト化と衰退をもたらしたことをはっきり認識すべき時で
ある。舞踏の未来はそこからしか始まらない。それは何も近代の価値観を疑うなというこ
とではなく、それによって現在の我々の生がいかに規定されているかを見定めるべきだと
いうことなのだ。
舞台評『Walks~まにまに道中狂詩曲』
ー明るく、親しみやすく、平明な舞踏ユニットの誕生ー
筆者 北里義之(観劇日 5月20日(土)中野テルプシコール)
掲載媒体 テルプシコール通信No.197 掲載「明るく、親しみやすく、平明な舞踏ユニ
ットの誕生」
編集発行人/秦宜子 発行所/中野区中野3-49-5-1F テルプシコール編集
室
発行日/2023年8月24日
天狼星堂の大倉摩矢子と辻たくやは、このところ個別にも積極的な活動を展開して
いるが、舞踏ユニットとして、また企画集団として活動する”Walks project”を結成、個
人の手にあまる大きなプロジェクトにも挑戦して若手舞踏家を代表する存在になりつ
つある。『Walks~まにまに道中狂詩曲〜』は、気心の知れたふたりがソロとデュオに
よるシンプルな構成で踊ったもの。おそらく現在の舞踏界でもっとも明るく、親しみや
すく、平明といえるだろう彼らの舞踏の本領が発揮された。
大倉が「はい、では明日のお天気」といってスタートする公演冒頭で、ぼんやりとホリ
ゾントに投影される、テレビ画面を模した白い光をはさんで立ったふたりは、会話にな
らない言葉を投げかけあったあと、それぞれの動きで光のなかに片手をさしのべる。
その静けさのなかに、インサートされてくる雨音らしき音。詩的で情景的な導入部であ
る。また黒い衣装から白い衣装へと着替えたふたりが、いままさに「道中狂詩曲」の乱
舞に突入しようとする後半、「おでかけですかー」という大音声で大倉が登場、ステー
ジ中央に立膝ずわりしてほっぺたをプクッとふくらませるなど、言葉を使った新しい演
出スタイルが印象深かった。特に後者は、赤塚不二夫の『天才バカボン』に登場する「
レレレのおじさん」の持ちセリフで、平成や令和の日本からは失われてしまった昭和
のホームコメディの記憶が濃厚にたたえられた一言に、心は懐かしい気持ちであふれ
てしまう。これらの言葉の使用は、ふたりが参加した天狼星堂公演『つづれ織り
』(2022年10月)で、他でもない大倉が、「まさかこんなところにメメクラゲがいるとは思
わなかった」とつげ義春『ねじ式』の言葉を発するシーンを思い出させるものだった。
ダンス公演多しといえども、ここには舞踏でしか味わえない身体的記憶の回復のよう
なものがある。
彼らの踊りには、身体の形の美しさで一瞬一瞬をつないでいく磨きあげられ方があ
り、それがポージングの連続としてあるのではなく、とてもゆっくりとしたムーブメントの
なかに点綴されていく。一瞬もとどまることのない身体のさまを数々の経過点でつな
いでいく生成される身体として、ソロの美しさからデュオの「まにまに道中狂詩曲」へと
切れ目なく踊られていく展開には、デュオの舞踏観があらわれていた。
余談だが、ひとつ不思議だったのは、大倉の踊りに、ときどき首が伸びるような動き
が見られたことだ。実際にはあり得ないことだが、それが彼女の踊りの美しさに西洋
画風のー具体的にはモディリアーニの絵画を思わせるーデフォルメを感じさせたのだ
ったが、当の大倉によれば、大倉家で19年間飼っているペットのカメQが本番中に入
ってきて、大倉は何回かカメになっていたとのこと。けだし舞踏の醍醐味ここにありで
ある。
舞台評『いざ出陣‼』
ー舞踏家ではない、身体こそが踊りを語るー
筆者 北里義之
掲載媒体 テルプシコール通信 No.187掲載「舞踏家ではない、身体こそが踊りを語る」
編集発行人/秦宜子 発行所/中野区中野3-49ー15ー1F テルプシコール編集室発行日
/2021年12月23日
辻たくや、大倉摩矢子ワークインプログレス公演『いざ出陣!!』(2021年12月2日)在籍期間は異なるものの、ともに舞踏カンパニーの“天狼星堂”で学んだ辻たくや、大倉摩矢子のふたりが、京都で桂勘が主催する舞踏フェスティバル「KYOTO DANCING BLADE♯3」(2021年12月15日-19日、京都東山区SPACE LFAN)への遠征公演を前にして、東京での下準備とお披露目を兼ねてワークインプログレス公演『いざ出陣!!』をおこなった。
辻たくやのソロからスタートした公演は、途中で大倉を加えたデュオになり、後半で辻が抜けて大倉のソロになるというひとつらなりの流れのなかで踊られた。ゆっくりとしたスピードで手足がばらばらに動いていきながら、いつの間にか体勢が移っていくという踊りを基調にしながらも、辻は、自身のソロで一回、横走りしたり、横転したり、上手コーナーの柱に衝突したり、ホリゾントの壁に飛び蹴りを入れたりしながら、ボサノバの曲をバックにステージを右まわりに走りつづけ、またデュオのなかでも一回、想像的民族音楽とでもいった芸能山城組の「アキラのテーマ」が流れるなか、大倉の踊りを巻きこみながら、全身をくねらせたり、床上を転がったりする激しい動きで破調の場面を作った。
動きに緩急の差を作ることで踊りが単調にならないようにする工夫は、天狼星堂出身の踊り手によく見られる場面構成のスタイルだが、破調がクライマックスの場面になるというのではなく、そこまでの動きを切断しながら突然あらわれてくるのを特徴にしている。デュオがゆっくりと動きを展開していく場面では、細かな動きを地つづきに隣接していきながら、まるで織物が自然に編まれていくようにして、全方位的な踊りが姿をあらわすというような踊りが踊られるのだが、大倉の踊りのなかには、共演者の手指に触れたりーーー無意識の動きのなかでも、このコンタクトの場面は、デュオの関係性において身体的な特異点をなしたように思うーーー床にさがっていく右肩が突然引き戻されたり、小ジャンプで一気に前を向いたりする動きもあった。踊りに、はさみこまれるこの小さな切断点は開放点として働き、彼女の舞踏ならではの明るさを生む要素になっている。もうひとつ指摘するなら、ステージ中央に並び立ったふたりが両手をゆらゆらとあげた場面で、辻が身体存在を示すように踊ったのに対し、大倉はあげた左手を上手に伸ばしていくというダンス的な動きで、さりげなく身体を開くことをした。これもまた大倉の舞踏の明るさに通じる無意識の動きといえ、ステージに立つ彼女のスタンスを身体そのものが示す端的な場面になっていたと思う。
下手の壁を隠す黒いカーテンを引きあけながら登場した大倉摩矢子の踊りの、難解でない、人のよささえ感じさせる素直さ、平明さ、裏心のなさ、踊り手の喜びとともにある動き、流れに従っているだけといった、どこまでもシンプルな動きだけで人をゾクゾクとさせずにはいない身体の触発性、これをどう言いあらわしたらいいだろうか。床面に顔がついてしまうのではないかと思うくらい低く前屈する姿勢、優雅に波打つ腕の動きが背後に翼のように広がり、両脇から外へと植物の芽のように伸びていくしなやかさ、反り身になった背中の湾曲、白塗りした皮膚を濡らすしとどの汗や天井をあおいだ表情に漂う官能、相方の手指に触れるとき、床面をサッとなぞるとき、爪を床面に突き立てて這うときの火がついたような指先の先鋭化、歩くための足を捨て、中空にホバーリングするように滞留しながら動くときの異次元感覚、爪先立つ両足、左傾する上体、のけぞる頭、こうしたバラバラな動きがところを得てひとつになったところにあらわれてくる意外なまでの美しさ、ホリゾントに向けて両手を大きく広げたときの後ろ姿、両手をあげた動きが音楽のリズムとともにバリ舞踊のように見えてくる瞬間、そして照明のあたらない場所に歩き出て、ゆっくりと揺らめくような動きのただなかに訪れる最後の暗転など、風景的なものを感じさせる場面は、これはいったいナニモノと思わせるような奥行きのある身体によって支えられていた。
無意識の井戸から汲みあげられてくる動きの数々。これは直感的な物言いになるが、もしかすると彼女の身体は、そのほとんどが(けっして舞踏には限らない)先人の足跡によって踏み荒らされずに放置されている処女地のような状態にあるのではないだろうか。そこには語られずにいるものがいまもたくさん眠っていて、舞踏言語として蓄積されていく動きのヴォキャブラリーが、さほど広くないところに生まれてくる踊りの平明さを凌駕してあらわれてくるということ。平明であるがゆえに見るものの想像力を掻き立て、身体の潜勢力で見るものの身体を打つという出来事が起こっているということ。踊れば踊るだけ、動けば動くだけ、身体を開けば開くだけ、彼女の身体からは前代未聞の表現が湧出してくるということ。そこには Body speaks. という、身体こそが踊りを語るという、すべてのダンサーにとって、また舞踏家にとっては特に理想的な姿がある。